時価会計
長い間、会員資格の規定は基本的に変わっていない。直系の男の子孫が絶えた場合には傍系子孫の入会を受け付ける規定もある。戦争中に亡くなった者の子孫を含める州の協会では会員が拡大しているが、また資格制限は厳しいままである。公式記録は公にされていないが、世界の会員数は3,700名と見られており、この中には元大統領、内閣の構成員およびその長子(男)が含まれている。より広い会員組織が別に創られた。アメリカ独立の息子達、およびアメリカ独立の娘達である。真の直系子孫会員であった大統領はフランクリン・ピアース唯一人(ジョージ・ワシントンとジェームズ・モンローは初期の会員)であり、ロナルド・レーガンは直系ではないがシンシナティ協会本部の名誉会員として現職のまま入会を認められた最後の大統領であった。ジョージ・H・W・ブッシュは大統領を辞めた後に名誉会員になった。アンドリュー・ジャクソンとザカリー・テイラーは投資信託
になる前に名誉会員になった。ジェームズ・ブキャナン、ウィリアム・マッキンリー、セオドア・ルーズベルト、ウィリアム・タフト、ウッドロー・ウィルソン、ウォレン・ハーディング、フランクリン・ルーズベルトおよびハリー・トルーマンは就任中に名誉会員になった。ユリシーズ・グラント、グロバー・クリーブランド、およびハーバート・フーバーは辞任後に名誉会員になった。
協会の会員の概観はかなり変わって来た。教会は長い間、プロテスタントでアングロサクソン人の血を引く上流階級の社会と見なされてきた。今日、ローマカトリック教会の者もおればヒスパニックあるいはアフリカ系アメリカ人も居る。会員になるためには応募者の血統を公式の書類で証明し、家系学的な調査と経歴の審査が行われる。応募書類は、その父親が会員であっても本人自ら提出する必要がある。アメリカ独立の息子達、およびアメリカ独立の娘達とは異なり、アメリカ独立戦争当時の大陸軍指揮官一人につき同時期に一人の子孫が認められる。ただし、例外はある。
14の支部には名誉会員がいるが、軍隊で傑出した業績を上げた者(例えば、栄誉メダルの受賞者、高位の将軍や提督)、あるいは傑出した公的役職を担った者(例えば大使、連邦上院議員)に与えられる。名誉会員には正規の会員と同じ権利と責任が付与されるが、死んだときの継承者を指名することはできない。
過去に多くの世襲会員が特命士官や海外勤務士官として従軍した。今日大きく変わったことは、多くの世襲会員が一度も特命士官や海外勤務士官として従軍することがなくなったことである。しかし、数多い世襲会員は軍隊の1兵卒として従軍したり、あるいは投資銀行家、健康管理者、医者、判事、弁護士、外貨預金
を務めている。基本的に協会の会員はかなり選別されているが、現会員の社会的地位や職業はその先祖よりも多様化している。
協会はアメリカ政府で伝統的に強い影響力を維持し続けており、特に連邦の実行部局で強い。大統領そのものは別にしても、国務省など大統領が指名する省庁に長い執務記録がある。典型的な例がラーズ・アンダーソン3世であり、著名なオハイオ州シンシナティ市の家庭から出てきており、バージニア協会のリチャード・クラフ・アンダーソンの曾孫でもあった。ラーズ・アンダーソンの優れた経歴の中には駐ロンドン公使館と大使館での第二書記官、駐ローマ大使館の一等書記官と代理公使、駐東京特命全権公使があった。アンダーソンはワシントンD.C.に冬を過ごす宮殿のような住居(現在アンダーソン・ハウスと呼ばれる)を建て、彼の死んだ1937年に未亡人が室内装飾や家具もろとも協会本部に寄付した
アンダーソン・ハウスはワシントンD.C.ノースウェスト、マサチューセッツ・アヴェニュー2118にあり、教会の本部と歴史的博物館、研究図書館を備え、大使館街(世紀の変わり目のワシントンで最も人気がある町並みと言われた)にあって、通り向こうには有名な学術的社交サークルであるコスモス・クラブがある。アンダーソン・ハウスはラーズ・アンダーソンの冬の住まいとして1902年から1905年に建築され、アンダーソンの妻イザベル・ウェルド・パーキンスは著作家で赤十字のボランティアでもあった。建築家はボストンのアーサー・リトルとハーバート・ブラウンで古典的装飾様式にした。アンダーソン家はこの家をアメリカや海外の社会や政界のエリートをもてなす場として使い、また夫婦があちこちと旅行した時に集めた装飾品や歴史のある工芸品コレクションの展示場とした。アンダーソン夫妻には子供がいなかった。ラーズ・アンダーソンが死んだ1937年に、未亡人は夫が50年間以上も尽くしてきたシンシナティ協会に建物と中身を送ることに決めた。協会は1939年にアンダーソン・ハウスの中に博物館を開いた。アンダーソン・ハウスは国定登録史跡に挙げられており、また国定歴史的建造物にもなっている。
今日のアンダーソン・ハウスの博物館を訪れる人は、一、二階を見て回る間にアンダーソンのコレクションを見ながら、ワシントンの興味ある所や集められている物について解説を受ける。またアメリカ独立戦争の歴史、シンシナティ協会およびCFD
とそこに収められているものについて入れ替えのある展示物を見ることもできる。アンダーソンが集めたコレクションに加えて協会の博物コレクションには、肖像画、兵器、および独立戦争に従軍した兵士の工芸品がある。また戦争と参加者思い出させるために作られた記念品、協会と会員の歴史に関連した品物、例えば協会の陶磁器や記章、アンダーソン家の肖像画や工芸品、ハウスの歴史に関連した、例えば第二次世界大戦の間に海軍がハウスを使ったときの工芸品などを納めている。アンダーソン・ハウスはケーブルテレビの「アメリカの城」シリーズにも収録された。
シンシナティ協会の図書館はワシントンD.C.ノースウェスト、マサチューセッツ・アヴェニュー2118のアンダーソン・ハウスにある。この図書館は18世紀と19世紀初期の陸軍と海軍に歴史に関する印刷物と原稿を集め保存し研究の用途に供している。特にアメリカ独立戦争と米英戦争の人物と出来事に集中している。収集品には、公式の軍事文書、当時の報告と論文、原稿、地図、絵画、文学および海軍の絵画と化学の作品を含め、様々な現代の作品と稀覯品が含まれている。さらにこの図書館はシンシナティ協会の記録保管所となっており、ラーズ・アンダーソンとイザベル・アンダーソンに関する資料もある。研究者は予約により利用可能となっている。
ニューハンプシャー州シンシナティ協会は知事の委員会を通じてエグゼターのアメリカ独立博物館を所有し運営している。この博物館は私設で非営利目的の施設であり、その使命はアメリカ独立とニューハンプシャー州およびエグゼターの果たした役割、さらに新しい共和国の設立に果たしたギルマン家の役割について研究、教育および解釈を行う場を提供することである。博物館の収集品の中には合衆国憲法の草稿、アメリカ独立宣言を印刷した不動産投資
の原本、ジョージ・ワシントンが特に勇敢だった兵士に与えた軍事功績記章の実物が含まれている。展示物は国で最古の退役軍人の協会であるシンシナティ協会、および初代大統領のジョージ・ワシントンを中心としている。永久保存物にはアメリカの家具、陶器、銀製品、布地および軍隊のチラシなどがある[3]。
アメリカ哲学協会:多くのシンシナティ協会員が最初の執行委員会メンバーとなり寄付をした。現在の哲学協会は非公式に友邦的関係を続けているだけである。
ファイ・ベータ・デルタ:シンシナティ協会がPBDの教授の国際的な活動と教育を後援している。
スカイラーは1733年11月20日にニューヨークのオールバニで、裕福な開拓者の家庭に生まれた。スカイラーの一族は元々は貧しい出であったが、新世界で徐々に資産を増やしまた影響力のある者となっていった。スカイラーの父、ジョン・スカイラーJr.はアメリカでの第3世代であり、コーネリア・バン・コートラントと結婚して、もう一つの著名な一族との結びつきを作った。父の従兄弟ピーター・スカイラーはジャージー・ブルースの指揮官であり、もう一人の従姉妹ヘスター・スカイラーはウィリアム・コルファクスと結婚した。コルファクスはジョージ・ワシントン将軍の護衛隊古参兵であり、後にニュージャージー民兵の将軍となり、ジャージー・ブルースの指揮官にもなった。コルファクスは第17代アメリカ合衆国副大統領スカイラー・コルファクスの祖父でもある。フィリップ・スカイラーの義兄弟ジョン・コクラン博士は大陸軍の軍事病院医局長であった。[1]
スカイラーが7歳の時に父が死んだ。オールバニのパブリックスクールを卒業したスカイラーは、ニューロシェルにあったバン・コートラント家で家庭教師について学んだ。スカイラーはフレンチ・インディアン戦争中の1755年にイギリス軍に加わり、商品先物取引
を率い、従兄弟の副知事ジェイムズ・ダランシーによって大尉に引き上げられた。後に補給係将校となり、物資の調達や機器類の組み立てを行った。
1755年9月、スカイラーはキャサリン・バン・レンスラー (1734-1803)とオールバニで結婚した。このことはニューヨークのもう一つの力を持った一族との結びつきとなった。この結婚は急なことであった(最初の娘は1756年2月に生まれた)が、二人の仲は一生続き、11人の子供に恵まれた。
1761年から1762年にかけて、スカイラーはイギリスに出張し、補給係将校としての仕事の始末をつけた。この期間にスカイラーはオールバニに都会の別宅を建て、サラトガ(現在のスカイラービル)の農園も始めた。戦後、スカイラーはサラトガの農園を拡張して所有地は1万エーカー (40 平方km)となり、小作農を増やし、倉庫や小麦製粉所、亜麻の加工工場、製材所まで加えた。亜麻布を作るための加工工場はアメリカで最初のものであった。スカイラーはハドソン川に浮かべるスクーナーを数隻造り、初めてサラトガと名づけた。
スカイラーは1768年にニューヨーク議会の議員として政治活動を始め、1775年まで務めた。この間にスカイラーの見解は植民地政府に対して反感を持つようになった。スカイラーは貿易や通貨の問題については特に能弁であった。スカイラーは知事のヘンリー・ムーア卿を支持していたので民兵の大佐ともなった。
スカイラーは1775年に大陸会議代議員に選ばれ、翌年6月に大陸軍の少将に任命されるまで務めた。スカイラー将軍は北部師団の指揮官となり、カナダ侵攻作戦を立案した。スカイラーは健康状態が悪く、作戦の実行指揮をリチャード・モントゴメリー将軍に任せることになった。
師団指揮の将軍としてスカイラーは1777年のサラトガ方面作戦で防衛の準備にあたった。7月にアーサー・セントクレア将軍がタイコンデロガ砦を落とされ、大陸会議は北方軍の指揮官をスカイラーからホレイショ・ゲイツ将軍に交代させた。スカイラーは自分の役割について軍法会議を要求し、汚名をそそいだが1779年に退役した。その後1779年と1780年は大陸会議の代議員を務めた。
スカイラーはニューヨーク州議会上院の議員として1780年から1784年、および1786年から1790年まで務めた。この間、アメリカ合衆国憲法の採択を積極的に支持した。スカイラーはアメリカ合衆国議会上院議員を1789年から1791年まで務めた。この後再選に失敗すると州議会上院に戻り、1792年から1797年まで勤めた。1796年の選挙でスカイラーは合衆国議会上院に返り咲き、1797年3月4日から健康問題で辞任した1798年1月3日まで務めた。